2017年7月30日日曜日

AIが人間を殺す日 -車,医療,兵器に組み込まれる人工知能- 小林雅一,集英社新書

最近、人工知能の話題を見ない日がないくらい、脚光を浴びている人工知能である。たまに、ディープラーニングという言葉を知らないという人に出会うが、新聞、テレビ、雑誌などでこのキーワードを避けて暮らすのはかなり難しいと思うのだが、そういう人は、目で見たものが思考回路に回らずに、スルーしているのだろうか。あるいは、まったく自分に関係がないものとして、無意識に無視しているのか、いずれかだろう。今どきの学生であれば、絶対に無視できないキーワードである。


さて、本書について話を進めよう。AIを不安なものと思っている人には、ますます不安が高まるようなタイトルが与えられている。少し最近の話題をかじった人なら、AIが人の知能を超えて暴走するというシンギュラリティの話かなと思うに違いないが、この本の帯に書かれている通り、著者のいう恐怖は、それではなく、人が制御ループから外れることによる危険性である。人工知能が将来完全なものとして存在するのかどうかわからないが、少なくとも、今の段階で、人の知能が不要というところに至っていない。

まず、AIの種類として、ルールベース、確率モデル(隠れマルコフモデル、カルマンフィルタなど)、ニューラルネット・ディープラーニングが挙げられているが、人の介在が必要な理由として、確率モデルに基づくAIにおける、正規分布よりも例外が多い、ファットテールの存在が挙げられている。

医療に関しては、ルールベースのAIであるワトソンや、最近では、ディープラーニングも取り入れられていることが結構詳しく紹介されている。ここでは、最終診断ではなく、AIは、あくまでも補助・情報提供をするというスタンスであるが、危険性よりも、その効果の大きさがPRされている。

軍事利用については、アメリカの軍事予算が日本の大学で使われることの是非の話なども含まれている。

このように、必ずしもAIの否定的側面ばかりを捉えている本ではなく、むしろ、これらの分野におけるAIの状況を知るために読んでも役に立つ本であると思われる。

2016年8月9日火曜日

ジョン・マルコフ著、瀧口範子訳「人工知能は敵か味方か」、日経BP社

 著者は、社会学を専攻したニューヨークタイムズ科学部門の記者である。著者も訳者もシリコンバレーに本拠地を置く。気楽な気持ちで本書を購入し、読み始めたが、その分量といい、内容といい、気楽な気持ちのままで読破するには荷が重すぎた。なにしろ、新書よりも少し大きい四六判だ
が450ページある。よく欧米人が分厚い本を電車やカフェで読んでいるが、あのイメージである。

目次は、次のようになっている。

  1. 人間とマシンの間、
  2. 砂漠を駆け抜ける-自動運転車の誕生と成長、
  3. 人類には不利な競争、
  4. AIの栄枯盛衰、そして復活、
  5. 倫理をめぐる研究者たちの闘争-NASAからスタンフォードまで、
  6. 有利なパーソナル・アシスタント、
  7. グーグルのロボット参入、
  8. ジョブズのワン・ラスト・シング(最後にもうひとつ)、
  9. 主人、奴隷、それともパートナー?
である。この本のタイトルは、最終章において問いかけられている。 

 最近、AIブームに乗り、人工知能やディープラーニングなどの本が多数出版されている。私も、あまりにチラシみたいな本と逆に数式ばかりの本を除き、見つけたら買うことにしている。それぞれ特徴があるが、本書は、記者の著者らしく、ほとんど内容的には自分が取材して情報を集めたものとなっており、とにかく詳しい。人工知能の授業でおそらく習っただろうと思われるダートマス会議のメンバーやそれぞれの主張、組織などが出てくるが、まるでそこの中を自分が見に行って確認したような感覚に捕らわれる。私個人的には、SLAMのスランとモンテマーロの話が面白かった。移動ロボットの世界では、知らない人がないと思われるこれらの人物の人となりや経歴など、なかなか知ることができないものだ。
 本書では、AIとIAが対比させてある。本書は、技術的な本ではなく、人工知能の歴史が、物語風に書かれたものである。人工知能について人に語ろうと思えば、この本の内容を理解していけば、かなりのところまで行ける。私自身、この本は何度も読み返して勉強したいと思ったし、来年度のパターン認識の授業に活かしたいと思った。   

川村元気著「理系に学ぶ」、ダイヤモンド社


 悪人、告白、寄生獣、進撃の巨人、モテキ、青天の霹靂、電車男などの映画プロデューサーであり、作家である典型的文系著者が、理系で今をときめく数々の著名人との対談をした内容が書かれている。

 対談相手は、養老孟司(解剖学者/作家/昆虫研究家)、川上量生(カドカワ代表取締役社長/ドワンゴ代表取締役会長)、佐藤雅彦(東京藝術大学大学院映像研究科教授)、宮本茂(任天堂専務取締役クリエイティブフェロー)、真鍋大度(メディアアーティスト)、松尾豊(東京大学大学院准教授人工知能研究者)、出雲充(ユーグレナ代表取締役社長)、天野篤(順天堂大学心臓血管外科教授)、高橋智隆(ロボットクリエイター)、西内啓(統計家)、舛田淳(LINE取締役CSMO)、中村勇吾(インターフェースデザイナー)、若田光一(JAXA宇宙飛行士)、村山斉(理論物理学者)、伊藤穣一(マサチューセッツ工科大学メディアラボ所長)である。

 これら、全く違う分野ではあるが、すべて理系の人との対談を読み進めてみると、自分がやったことが着実に積み上げられる理系の仕事というのが共通して垣間見える。それらは、ほぼ文系の人にはできないことばかり。

 養老孟司といえば、「バカの壁」を代表とする多くの大ヒットの書物の著者であり、ニコニコ動画を生み、カドカワの社長になった川上氏、バザールでござーるなどの傑作CMを作り出した佐藤氏、スーパーマリオやゼルダの伝説などをゲームプロデューサー宮本氏、LINE取締役舛田氏、MITメディアラボ所長の伊藤氏など、この記事を読んでいる諸君の中も、ここに挙げた人の中に何人か聞いたことがあるだろうし、皆さんが漠然と目標としている人もあるかもしれない。

 理系で情報系の皆さん、是非、こういう本を読んでほしい。理系で学んでいることがいかに可能性を秘めたことであるか、認識して自信を持ってほしい。ビルゲイツ、スティーブジョブズ、ラリーペイジ、皆理系人間である。そして、取り敢えず現状は無視して、思い切って自分の将来の夢をこういう人の話を参考にして描いてみてほしい。そのとき、君たちの将来像へ向かった歩みが始まる。 

2016年4月5日火曜日

坂村健著「IoTとは何か  技術革新から社会革新へ」、角川新書

ひと昔前ならユビキタス、その前ならTRONで有名だった、東大の坂村健教授の新刊である。IoTとは、Internet of Thingsの略であることはよく知られているが、坂村氏の考えるIoTというものが、単に、ものをネットワーク化するというだけでなく、IPアドレスのように、ucodeという個別のコードを充てるというものであることを知った。坂村氏のTRONおよびユビキタスは、すべてIoTに密接につながっていることから、IoTの30年来の研究者と自称する。

坂村氏は、日本の産業社会の特質を「ギャランティ志向」と特徴づける。動くことが保障されなければ製品にできないというギャランティ志向の日本型ビジネスモデルが、「閉じたIoT」には良くても、「オープンなIoT」には向かないという点が災いしている。これは、インターネットもベストエフォートで動くものであって、それをベースにしているIoTでもスピートで勝てないと彼は危惧している。IoTは、汎用のucodeをベースにしている点が、今までの商品のように、自社の製品だけで通じるコードとは異なり、どこの製品であろうが、それが読めて、それに関する情報が得られることを目指している。そのように、日本にとってなかなか推進が困難なIoTではあるが、IoTが食品の生産から販売までのトレース機能であったり、旅客機のメンテナンス履歴であったりと、そういうものが、IoTにより容易になることのメリットは大きい。

IoTが、いろいろなものに革新的な変化をもたらすことは想像に難くない。しかし、昔できた法律に書かれていないことは「ダメ」というのがルールの日本と、書かれていないことはOKというのが欧米のルールでは、新しいことの導入の困難さが違う。坂村氏は、社会的改革の提唱を、技術を伴いながら行っており、偉大な真の科学者であると思った。なかなか難しい本ではあるが、将来の情報の専門家を目指す人には一読を勧める。

2016年3月6日日曜日

佐藤智恵「ハーバードでいちばん人気の国・日本」、PHP新書

まず著者の略歴から。東大教養学部卒業後、NHK入局。2001年アメリカコロンビア大学MBA取得。12年、コンサルタントとして独立ということらしい。才媛である。
アメリカの大学の先生にも直接アタックして、多くを取材して書かれた本である。この本の中心に据えられているのは、JR東日本テクノハートTESSEIのことである。
テッセイは新幹線の清掃業務を請け負っている会社であり、ハーバード大学経営大学院のイーサン・バーンスタイン助教授がテッセイを訪問・取材し、感銘を受けたことが、本書の発端である。JR東日本では、7分間ですべてのトイレ掃除と全車両の掃除を終わらせる。これが、まるで劇場のようだと、Shinkansen Clearning Theatreとして紹介された。私も、JR東海や西日本の車両で、同様の掃除を見ることがたびたびあるが、おそらく同じようにすばらしいに違いない。清掃をしている従業員たちは、その仕事に素晴らしい誇りとやりがいをもって行っている。この点が、ハーバードの先生の目に留まって、教材になって紹介されたのである。
私も、ヨーロッパに住んでいたことがあるので、あちらでの清掃などの仕事がどんな雰囲気で行われているのかは大体見当がつく。決して多くの人から評価されることもなく、階層社会の底辺で、生活のために仕方なくやるということ以外に、彼らから学べるものはあるようには思われない。したがって、日本の新幹線の清掃業務を、マニュアルを作って彼らに命じても、「できません」で終わることが目に見えるようである。
こうしたことは、形は違っても、日本の様々なことにみられる。トヨタの「カイゼン」もあげられている。そこには、リーダーの謙虚さが根底にあるとしている。人を働かせるには賃金を上げればよいという、単純な労働と賃金の関係だけでは説明できない労使関係がある。
歴史、政治・経済、戦略・マーケティング、リーダーシップの視点からも、日本のすごさが紹介されている。終章では、いま、日本人があまりアグレシブでない理由として、快適すぎる国になっている点を挙げている。高齢化社会は、チャンスととらえている。若者と女性の能力は、眠ったままだと言っている。
全体的に、非常に褒めちぎっており、本当にそうなのかと思うところも多々あるが、あまり悲観的になるなと我々に言っている点は、ハッとする部分が多い。もっと肯定的に。楽観的に。私も、そういう風に考えて生きていきたいと思った。

栄陽子著、「ハーバード大学はどんな学生を望んでいるのか?-日本人が抱くおおいなる誤解」、ワニブックスPLUS新書

私はアメリカの大学に詳しくないが、世界大学ランキングでダントツの一位であり、世界中から多くの留学生を引きつけているハーバード大学がどんな大学なのか知りたくて、この本を手に取ってみた。著者は、留学のサポートの仕事に就き、その手腕には定評のあるようだ。

日本の大学と違う点は多々ある。まず、入学方法。アドミッションオフィス(AO)が合否を決める。AO入試と聞くと、日本にもあるじゃないかと思うが、実は日本のAO入試はAOになっていない。ハーバードの入試は、アドミッションオフィスという部署があり、そこに受験生を評価する専門家がいて、願書の中にある様々な資料を総合評価して合否を決めるというものである。受験生が提出する願書には、宗教や人種、使える言語などを問うロフィール、親の学歴・職業、兄弟姉妹の詳細、高校でのGPAなどを問う教育歴、ACT、SAT、TOEFLなどのテスト結果、課外活動、エッセイ等である。エッセイは、随筆というより日本でいう小論文に近いものだが、そこでは、代筆などをすればすぐに見破ってしまう専門家が待ち構えている。この内容を見て驚かない日本人は少ないだろう。本人およびそれを取り巻く人々がすべて評価対象となる。面接もあって、遠隔地の場合には依頼された人がカフェなどで雑談をするらしい。「スポーツ万能、成績抜群、生徒会会長を務め、ピアノはショパンを弾き、絵を描けば人の心を魅了する、美しい英語のスピーチは聴衆を惹きつけ、世界の環境問題や自国のあり方にも一家言を持つような高校生が求められる」(本書81ページより引用)。また、親がハーバード出身の場合の合格率は明らかに高い。人を評価するための方法として、何とすごい方法だと思うとともに、日本では決して許されない方法が堂々ととられていることへのショックは大きい。同時に、日本入試制度での、重箱の隅をつつく、いや、顕微鏡で細菌を見つけようとするような、ちまちまとした受験との違いに驚いた。

全寮制で、入れば猛勉強をさせられる。年間納付金は食費を含めて6万ドル(約700万円)。もちろん、それが払えるお金持ちの子息がいることが前提だが、7割の学生は奨学金をもらう。奨学金の申請書には、両親の年収のみならず、納付税額、両親の投資額、借金残高、不動産保有額、年間の家計における光熱費や食費の詳細など、本人及び両親の洗いざらいを申告しなければならない。

そうやって入り、勉強した学生たちは、卒業後、半年から1年程度を掛けながら、就職していくが、一流企業に入ることを目標としていない人がほとんどで、日本のように、3年生の頃から就職活動で授業を休んだりすることは考えられず、大学で、自分の能力を高めることを最大限追求するのがハーバード流のようである。就職についても、一生勤める気など最初からない。学生時代に作り上げた自分の能力を武器に、それから何十年やっていく自信がついている。

学生諸君がこの本を読んだら、私とは違う感想を持つかもしれない。大学の価値は何なのか、自分は学生時代にどのような時間を過ごすべきなのか、是非考えてみてほしい。



2015年12月6日日曜日

池上彰、佐藤優「大世界史 現代を生きぬく最強の教科書」、文春新書

グローバル化が盛んに叫ばれている。つまり、世界標準、大学の英語化である。世界のどこに行っても英語でのコミュニケーションが十分できないと、取り残されてしまうという感覚が席巻していて、ほぼ日本人だけの学会、日本人だけの授業でさえ、英語でやろうという話が、日本人の中で比較的英語が得意の人々の中で盛り上がり、そういう場ができあがってしまっている。
私の知っている「国際会議」のいくつかも、ほぼ日本人だけで外国で「国際会議」を開き、日本人だけのディスカッションを英語でやっている。そこで議論をやっているのは、ほんの一握りの外国人だけで(たいていは英語はできるが、中身がない者が多い)、日本人は、貝のように口をつぐんでいるか、めちゃくちゃの英語を得意げにしゃべり、自己陶酔しているだけである。そこには、「国際会議
」という名に値する議論の場は全くない。

「学会」が、オール英語化のせいで、日本人の多くから理解と議論を奪っている。そこには、「英語でないと学会ではない」、「英語で議論できるようにせよ」という押しつけがまかり通っている。多くの学会で会員数の減少が問題になっているが、ひとつは、行ってもよくわからないという問題があるのではないだろうか。英語を訓練する場に化している学会に、若い人が入会する価値を見いださないのは、当然と言うべきであって、中身がしっかり議論できることがまず第一だろう。

前置きが長くなったが、この本でも、こういう問題が取り上げられている。

いまの大学は、どこもグローバル基準に合わせることに汲々としています。
ギリシャ・ラテン古典学のある先生の話が特に印象的でした。この先生は国立大から早稲田大学に移ったところ英語の勉強が大変だとおっしゃっていました。4コマのうち、1コマは英語で授業しなければならないからです。そこで、「英語で伝えた場合、日本語で伝える場合の何割くらい伝えられますか」と尋ねると、「3割くらい」と。では「学生の理解は日本語の時の何割か」と尋ねると、「2割くらい」と言います。3割×2割で6%、つまり、日本語の授業に比べて6%しか伝われない講義をして、それをグローバリゼーションといっている。(p.226)
つまり、しゃべる方は3割、聞く方は2割というのだ。これは、私が想定する割合と合致する。それを、グローバル化と称して、両方を10割に近づけるよう、いや、10割に行かなくても、2割でも3割でも、それをすべきだというのが今のグローバル化の言い分であるが、学問の中身はそこまで軽いのであろうか。学問分野にもよるだろうが、日本語でも、言い回しを間違えると違う意味になってしまうことが多々あるが、英語になると、「何の話をしているのかわかれば、よしとする」というレベルになってしまいかねない。今の複雑な社会や学問を考えたとき、理解が不十分にならざるを得ないものの提供は十分でないことは明らかである。
理解が容易な言語=日本語を使って、多くの日本人学生を理解させるということの方がずっと重要なのではないだろうか。英語が不十分な者にとっての英語でのディスカッションの学会は、中身を大部分あきらめざるを得ないという状況があることが、あまり理解されていない。もちろん、英語での議論がしっかりでき、国際的な場での日本人の存在を主張すべき人材の育成は必要であるが、それは、一部の学会に任せよう。IEEEなどの学会で、日本人がもっと活躍すればいいのではないか。
 いま、オール日本語の学会が非常に活況を呈しているのは、現実路線を行く学会である。そこでの議論はレベルが高い。というか、参加者の満足度は高そうである。一部の学生の訓練のためにに94%を捨ててはならないと思う。

学会と大学の授業は違うが、そこにある問題は似ている。