2015年12月6日日曜日

池上彰、佐藤優「大世界史 現代を生きぬく最強の教科書」、文春新書

グローバル化が盛んに叫ばれている。つまり、世界標準、大学の英語化である。世界のどこに行っても英語でのコミュニケーションが十分できないと、取り残されてしまうという感覚が席巻していて、ほぼ日本人だけの学会、日本人だけの授業でさえ、英語でやろうという話が、日本人の中で比較的英語が得意の人々の中で盛り上がり、そういう場ができあがってしまっている。
私の知っている「国際会議」のいくつかも、ほぼ日本人だけで外国で「国際会議」を開き、日本人だけのディスカッションを英語でやっている。そこで議論をやっているのは、ほんの一握りの外国人だけで(たいていは英語はできるが、中身がない者が多い)、日本人は、貝のように口をつぐんでいるか、めちゃくちゃの英語を得意げにしゃべり、自己陶酔しているだけである。そこには、「国際会議
」という名に値する議論の場は全くない。

「学会」が、オール英語化のせいで、日本人の多くから理解と議論を奪っている。そこには、「英語でないと学会ではない」、「英語で議論できるようにせよ」という押しつけがまかり通っている。多くの学会で会員数の減少が問題になっているが、ひとつは、行ってもよくわからないという問題があるのではないだろうか。英語を訓練する場に化している学会に、若い人が入会する価値を見いださないのは、当然と言うべきであって、中身がしっかり議論できることがまず第一だろう。

前置きが長くなったが、この本でも、こういう問題が取り上げられている。

いまの大学は、どこもグローバル基準に合わせることに汲々としています。
ギリシャ・ラテン古典学のある先生の話が特に印象的でした。この先生は国立大から早稲田大学に移ったところ英語の勉強が大変だとおっしゃっていました。4コマのうち、1コマは英語で授業しなければならないからです。そこで、「英語で伝えた場合、日本語で伝える場合の何割くらい伝えられますか」と尋ねると、「3割くらい」と。では「学生の理解は日本語の時の何割か」と尋ねると、「2割くらい」と言います。3割×2割で6%、つまり、日本語の授業に比べて6%しか伝われない講義をして、それをグローバリゼーションといっている。(p.226)
つまり、しゃべる方は3割、聞く方は2割というのだ。これは、私が想定する割合と合致する。それを、グローバル化と称して、両方を10割に近づけるよう、いや、10割に行かなくても、2割でも3割でも、それをすべきだというのが今のグローバル化の言い分であるが、学問の中身はそこまで軽いのであろうか。学問分野にもよるだろうが、日本語でも、言い回しを間違えると違う意味になってしまうことが多々あるが、英語になると、「何の話をしているのかわかれば、よしとする」というレベルになってしまいかねない。今の複雑な社会や学問を考えたとき、理解が不十分にならざるを得ないものの提供は十分でないことは明らかである。
理解が容易な言語=日本語を使って、多くの日本人学生を理解させるということの方がずっと重要なのではないだろうか。英語が不十分な者にとっての英語でのディスカッションの学会は、中身を大部分あきらめざるを得ないという状況があることが、あまり理解されていない。もちろん、英語での議論がしっかりでき、国際的な場での日本人の存在を主張すべき人材の育成は必要であるが、それは、一部の学会に任せよう。IEEEなどの学会で、日本人がもっと活躍すればいいのではないか。
 いま、オール日本語の学会が非常に活況を呈しているのは、現実路線を行く学会である。そこでの議論はレベルが高い。というか、参加者の満足度は高そうである。一部の学生の訓練のためにに94%を捨ててはならないと思う。

学会と大学の授業は違うが、そこにある問題は似ている。